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日本大学桜門春秋に掲載されました

熊倉 淳
株式会社 熊倉工務店 代表取締役
(昭和53年 理工学部建築学科卒業)

町家再生の難しさと、その醍醐味は何ですか?

単に外観だけ残して、とりあえず住めればいいというのでは駄目なんですね。キッチン、トイレ、風呂の水回りを万全にする一方で、過去の施工方法を反映しつつ、新工法も取り入れて・・・。1992年にNPOの「京町家再生研究会」、その7年後に技術的な保存、改修を進める職人集団「京町家作事組」を結成したのも、京都の伝統と文化を継承する狙いからです。
この町家は地元の「お施主さん」が海外から訪れる得意先のゲストハウスにと考えておられるようなので、奥行きの深い床をイタリアン感覚のタイルを敷いて「あと50年はもたせましょう」と。これも伝統工法に対応できる大工や左官などを抱えているからこそできることで、うちでは職人達との親睦や勉強の場として「順睦会」をつくって関係を強固にしています。

京都といえば神社仏閣ですが、意外にモダンなんですね。

日本初の路面電車が走ったのが京都だし、平安神宮も明治28年の内国勧業博覧会に際してつくられたりと、京都は実は新しもの好きな街でもあるんです。
当社は曾祖父が明治30年に土木建築請負業として創業してから、今年で119年(2021年現在 124年)。私で4代目ですが、祖父は京都大学建築学科の先生方と交流して擬洋風の洋館を建てていますし、父親もむしろ近代住宅建築の方で評価を得てきました。
私が「奇抜なもの」を創ることを目標にしているのも、その系譜でしょうか。京都三条大橋に建つスターバックスの店舗では、鴨川に面して納涼床をせり出してみました。
川べりにすらりと並ぶ木組みのやぐらは夏の京都の風物詩。
この伝統文化を気軽に味わってもらいたいとの思いからです。引き続き、京都の町並みに調和した新たな美しさを生み出していきたいと、常々考えています。

住宅を建築する上でのこだわりは?

戦後にアメリカのライフスタイルが普及するにつれ、住環境も変貌してきました。今や住宅は工業製品の一つとして、「建てるもの」から「買うもの」に変わり、カタログから選ぶ大型消費財と考えられるようになってきました。
当社も木造住宅以外の住宅や、鉄筋コンクリート造の大型建築の注文が増えています。しかし、かたちはどうあれ、「お施主さん」と一緒に考え、ともにつくるという真の意味での「注文住宅」にこだわりがあります。建てた後も修繕や改修をを考え、「お施主さん」と一生のおつき合いをさせていただくというのが、創業時から貫いていた姿勢です。
当社では一つの仕事に対して、一人の技術者が一貫して設計・施工管理を担当し、責任を持ってトータルプロデュースするシステム。その上で私が広く全体を見渡して、すべての設計・施工の目配りをするからこそ、きめ細かなサービスが出来るんです。
「お施主さん」にとっても、個別に修繕を発注していたのでは費用がかさむばかり。負担を極力少なくした保守点検を旨としている点が、結局は喜ばれています。

社員は週に一度、社屋に設けた茶室で茶道の稽古を受けるそうですね。

京都では、抹茶を出されての商談が多い。そこで失礼がないようにという訳で・・・。大概は誉めてもらうより、怒られるときに抹茶が出されることが多い。そのとき、思いっきり緊張した中での練習を普段やっておかないと、無作法によりますますご立腹になる。
でも、施工後のメンテナンスを引き受けることができるのは、そんな信頼関係を築くことが出来たからこそ可能に。
事実、戦前に設計・施工した住宅から、現在でも修繕、改修を引き継ぐケースが多く、企業の信用なりブランド力を形成していく上で、これは大きな財産になっています。

日本大学に進学した理由は?

旧本社に家族と住んで、常に父親の背中を見て育ってきました。倉庫も隣接して、中には建築材料がいっぱいあり工具を自由に使う事も許されました。そんな環境に加えて、当時は祖父とも同居しており、生まれた時から「将来は家を継がんとあかん!」ときつく洗脳されてきたんでしょうね。
実は父親も上京して、日本大学で勉強したかったそうなんです。戦争で駄目になったんですけどね。そんな父親の薦めは、都会へでたかった私にとって、渡りに船でした。何より親元から離れて自立したかったですね。
東京に出て、自分のセンスを磨きたい、色々な面で勉強したいと胸に膨らませたんですが、理工学部のレベルは高かった。建築の世界で東京には東大、早稲田、日大というランクが当時の私らにはあって、受験勉強に苦労しました。

日本大学で学んで良かったと思うことは?

東大生や京大生は偏差値は高いかもしれないが、建築を家業にしてきた者のDNAが感じられない。その点、建築学科の同級生は同じ環境に育った仲間同士という一体感があったし、バブルの絶頂期だったですが、結構真剣に勉強していました。
当時は関西国際空港の建設を巡って活発な議論が展開されたのですが、日本大学は巨大人工浮島のフローティングシステムを提案。それに参画した大プロジェクトで国交省との接点もあって、醍醐味を味わいました。在学中は早稲田にも負けないというプライドを持っていましたね。
性格も変わりましたね。京都育ちはイエス、ノーとはっきり明言することはないし、身ぶりや表情で相手に意思を伝えるのが下手。そんな自分が大学で思いっきり変わりました。たった一つ、標準語だけはいつまでたってもしゃべれない。京都人の特異性ですか、「何でそんなもん、しゃべらんとあかんねん」という訳ですよ。

卒業してからはいかがですか?

京都に戻った直後はデメリットばかり。商売の拠点としては地元の大学出身でないと、どうしようもなかったですね。
とはいえ時代がたつにつれ、地域の垣根を越えて仕事が増えていくのに伴って、東京の有名な建築家や海外からも依頼が飛び込んでくることに。その点では日本大学理工学部卒の信用力というか、ロータリークラブやライオンズクラブ並みの絆の深さを強く感じます。
実は息子の毅一が日本大学の生産工学部建築工学科で学んだ縁で、同学科の学生や院生を対象にした京都での2泊3日の建築技術研修を毎年、手弁当で受け入れているんです。もう5回になるのですが、自然素材を使った伝統工芸をしっかり体験し、日本の伝統文化を学んで欲しいとの思いから。滞在中は事故がおきないようにと気を使いますが、自分が学んだ日本大学が好きだし、恩返しの一つですね。建築工学科の先生方と接点が持てることも、生涯を建築の世界にかける身として嬉しい限りです。

最後に後輩たちへのアドバイスを。

18歳から20歳まではスキルを磨く絶好の時期。一生懸命学んで欲しいし、それには遊びを楽しむ心のゆとりも必要です。「よく学びよく遊べ」ですか。さらに自分がここにいるのも両親から祖父母、さらにその先の先祖の存在があったればこそ。そんな気持ちがあれば歴史的なものが好きになったり、興味を持ちます。結局は謙虚さと感謝の気持ちを忘れないことですね。
先の戦の話に言及すると「応仁の乱」にあたるのが、京都という土地柄。過去帳によると当時根ざして330年、京都西町奉行所与力の先祖もいる熊倉家は、淳氏で12代目という立派な京都人だ。
実はインタビュー当日、発注額が数億円という重要な施主とのアポイントが入ったそうだ。が、先約だからと当方との会見を優先し、京町家の再生工事現場までタップリ案内して回ってくれた。その間、大事な面談の件はおくびにも出さず仕舞いで、後から人づてにこっそり教えられた。
「京のお茶漬け」の話に象徴される「いけず」なプライドの高さが揶揄されるが、実際に接して分かったのは他人に対する心遣いの極致。それが京都人の持つ矜持なのだろう。

(聞き手 高橋 浩 企画広報部長)

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